『栃木の街道』(S53.10.31 発行:栃木県文化協会)に三鴨駅の記載あり。

栃木の街道 (1978年)
栃木県文化協会
1978-10


P46
 佐野城山の北を通って、堀米・犬伏を直進すると、米山丘陵に突き当たる。米山から低湿地を避けて関川の北を超えると新里に出る。ここが三鴨駅屋の想定地である。なお、南の町谷から畳岡に抜ける日光例幣使街道は近世初期に造られたことが明らかである。

P47
 三鴨の駅屋名に問題がある。『延喜式』には三鴨とあり、『和名抄』には三嶋とある。下津原に三鴨神社があり、三谷に三嶋神社がある。どちらも決め難いのであるが、たまたま『万葉集』の下野国東歌に「美可母夜麻」の歌があって、このミカモを三鴨駅屋と結び付け、従来太田山と呼びなれていた佐野・岩舟間の丘陵を三毳山にしてしまった。でも近世の学者たちは忠実に三顔と書いていたが、『下野国誌』の著者が三毳にし、明治以降は地図に三毳山と印刷され、三鴨村という新村名まで誕生してしまった。
 古代から中世にかけて歌枕として知られたみかもの山は、歌人たちによってさらにみかもの関、三香保の崎などの新語が生まれ、これらがどこにあるのか真面目に捜す人たちも出てきた。そしてついに東山道は、三毳山の西の黒袴から比高約100メートルの峠を越し、東側の下津原に出たとし、鞍部に関所跡があり、歌人が作歌したというところに「詠の石」という岩があるとした。
 この峠の西には干拓されて水田化された広い超名沼があり、その西には数条の深い開析谷の削った台地がある。古代の官道がこうした河谷や湖沼を渡り、さらに峠を越えたとは到底考えられない。

 ここでは、東山道の越名沼、三毳山通過ルートを否定し、駅屋は現在の新里集落と比定している。三毳山と呼ばれるまでの経緯に関する考察も興味深い。
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