みなさん、エンジョイしてますか?
さて、朝の恒例です。
大宰府に左遷されることになった魚名ですが、この年に失意の中なくなります。
783年(延暦2年)5月10日に天皇は「大宰帥・正二位の藤原魚名は老いと病が重なって、大宰府への赴任の途中で留まり滞留している。京に還らせ、郷里の親戚にたくすように」との勅がありました。
7月23日に石見国介・正四位下の藤原朝臣鷹取、土佐国介・従五位の藤原朝臣末茂らに入京を許す勅がでました。
事実上、許しが出たということでしょう。
ところが、7月25日に大宰帥・正二位の藤原朝臣魚名が昂じた薨じました。享年63歳でした。
以下引用です。
魚名は贈正一位・太政大臣の藤原朝臣房前の第五子である。天平の末には従五位下を授けられ侍従に任じられた。しばらくして転任し、天宝宝字年間に従四位・宮内卿に至り、天平神護二年に従三位を授けられ参議となり、宝亀の初めに正三位に叙せられ大納言を拝命した。ついで中務卿を兼任し、宝亀八年に従二位を授けられた。年齢はすでに長老となり、ついで天皇の政務の補佐に当たり内臣を拝命した。ほどなくして天皇の勅があり、内臣を改め忠臣と号した。宝亀十年に昇進して内大臣となり、天応元年に正二位を授けられ、にわかに左大臣を任じられ大宰帥を兼任した。延暦元年にある事件で罪に触れて左大臣を罷免された。京師を出て任地に赴く途次の摂津国に至った時、発病して留まり滞在した。天皇の勅があって、そのまま摂津の別邸に居続け治療することを許された。
二年留まって京師に召し還された。薨じた時、六十三歳であった。
7月30日には天皇から以下のお言葉がありました。
以下引用
功績に報い手柄に叙位することは古典に明らかにされ、過ちを赦し罪を許すことは昔の経籍にも書かれている。故大宰帥・正二位の藤原朝臣魚名は、祖父不比等や父房前の時から、代々すぐれた功績をあらわし、あるいは忠義を尽くして君に仕え、あるいは教化・道徳をひろめてその時々のあり方に従った。ここにこれを思い心中に忘れることはない。ゆえに今、元の官位を贈って以前の功績に酬いることにする。去る延暦元年六月十四日に下した詔勅や官符などの類はすべて焼却するように。
冤罪だったのでしょうか・・・・
藤成はそのころどうしていたのでしょうかね。
空も泣いてます。
さて、朝の恒例です。
大宰府に左遷されることになった魚名ですが、この年に失意の中なくなります。
783年(延暦2年)5月10日に天皇は「大宰帥・正二位の藤原魚名は老いと病が重なって、大宰府への赴任の途中で留まり滞留している。京に還らせ、郷里の親戚にたくすように」との勅がありました。
7月23日に石見国介・正四位下の藤原朝臣鷹取、土佐国介・従五位の藤原朝臣末茂らに入京を許す勅がでました。
事実上、許しが出たということでしょう。
ところが、7月25日に大宰帥・正二位の藤原朝臣魚名が昂じた薨じました。享年63歳でした。
以下引用です。
魚名は贈正一位・太政大臣の藤原朝臣房前の第五子である。天平の末には従五位下を授けられ侍従に任じられた。しばらくして転任し、天宝宝字年間に従四位・宮内卿に至り、天平神護二年に従三位を授けられ参議となり、宝亀の初めに正三位に叙せられ大納言を拝命した。ついで中務卿を兼任し、宝亀八年に従二位を授けられた。年齢はすでに長老となり、ついで天皇の政務の補佐に当たり内臣を拝命した。ほどなくして天皇の勅があり、内臣を改め忠臣と号した。宝亀十年に昇進して内大臣となり、天応元年に正二位を授けられ、にわかに左大臣を任じられ大宰帥を兼任した。延暦元年にある事件で罪に触れて左大臣を罷免された。京師を出て任地に赴く途次の摂津国に至った時、発病して留まり滞在した。天皇の勅があって、そのまま摂津の別邸に居続け治療することを許された。
二年留まって京師に召し還された。薨じた時、六十三歳であった。
7月30日には天皇から以下のお言葉がありました。
以下引用
功績に報い手柄に叙位することは古典に明らかにされ、過ちを赦し罪を許すことは昔の経籍にも書かれている。故大宰帥・正二位の藤原朝臣魚名は、祖父不比等や父房前の時から、代々すぐれた功績をあらわし、あるいは忠義を尽くして君に仕え、あるいは教化・道徳をひろめてその時々のあり方に従った。ここにこれを思い心中に忘れることはない。ゆえに今、元の官位を贈って以前の功績に酬いることにする。去る延暦元年六月十四日に下した詔勅や官符などの類はすべて焼却するように。
冤罪だったのでしょうか・・・・
藤成はそのころどうしていたのでしょうかね。
空も泣いてます。
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